よみうりカルチャー講座 わが心をみがく巡礼旅

平安貴族の間でブームとなった観音信仰と特定寺院の発展/観音寺院発展に寄与したヒジリの存在

(注)この講義録は、音声でお聞きいただけます。ただし、音声ソフトの関係で、変換が十分でないことをお許し願います 。

音声その1

音声その2
音声その3
音声その4
音声その5

五叟鐵太郎でございます。

それでは、よみうりカルチャー講座 わが心をみがく巡礼旅 の第3回の講義に入らせていただきます。

前回 お話しましたように、平安時代半ばには、浄土教に影響を受けた観音信仰により、京都の周辺に、観音をまつる寺院がたくさん建立されました。

また、一方で日本古来の山の信仰が基になって、山林には宗教者の修行場がたくさんでき、観音さまが祀られたりしていきます。

そこで本日のテーマです。

それら、観音寺院や山の霊場などがベースになって、西国三十三所が成立するのですが、それらの中で、特定の寺院や特定の霊場がセレクトされていったのは、どのような背景や理由に基づいていたのでしょうか。今回は、そこを少し詳しくお話しさせていただきます。

お話の柱としては、次の2点です。

1 平安貴族の間でブームとなった観音信仰と特定寺院の発展

2 観音寺院発展に寄与したヒジリの存在

1 平安貴族の間でブームとなった観音信仰と特定寺院の発展

まず、1の平安貴族の間でブームになった観音信仰についてお話します。

西暦700年代から800年代の初め頃、すなわち奈良時代から平安時代初期に至る間のことです。

このころ、観音菩薩への期待がとても大きくなります。当時の政府も、あるいは庶民の間でも観音さまの救済の力に多くの人が期待を寄せたのです。

とくに、政府の場合には、国内の治安の安定や、農作物の豊かな実りなどを観音菩薩に祈りました。まさに、当時を生きる国民の暮らしを豊かにして、国の統治を成功させたいという願いからでした。そのために、官寺では国家による祈祷が頻繁に行われました。官寺とは、国家がサポートしていた伝統的な寺院のことで、祈祷とはお坊さんが仏教の経典を読むなどして、仏様に願いをかける行為です。祈祷で読まれる経典は様々ですが、奈良時代からは観音さまの経典が国の儀礼で多く読まれていたようです。とりもなおさず、それは国家が観音菩薩の力に多くを期待していたということでもあったのです。

しかし、西暦800年代半ばに変化が出てきます。貴族たちが個人的な願いを叶えたいがために、観音さまを信仰し、特定の観音寺院や、特定の観音像に参詣する例が増えてくるのです。それまでの貴族は、国家の仏教行事に参加して、国家のために観音さまを信仰するというのが建前だったのですが、西暦800年代の半ば頃からは、国家のためというよりも、むしろ個人的な事情の中で、観音さまに思いを寄せるようになったのです。

その理由として、一つには、浄土教の影響があったようです。前回の講座でお話したことですが、西暦800年代の半ばになると、貴族社会の人々の中に、死後の世界に対する恐怖が高まります。死というものは、もともと人間にとって恐怖の対象であるわけですが、六道輪廻という思想が入ってくると、死の恐ろしさとともに、自分が死んだ後の世界の恐ろしさにまで、想像が及ぶようになってしまったのです。つまり終わりのない永遠の恐怖です。そうした恐怖から人々を救ってくれると説いたのが浄土教でした。生きているうちに念仏と唱え続けると、死後は阿弥陀如来が極楽浄土へ導いてくれるという信仰です。まさにそれは、救済の信仰だったのです。そうした救済の信仰に人々の期待が集まり出すと、天台宗の教義の中にあった、六観音信仰にも救済の力のあるということで、注目が集まります。六観音信仰というのは、六道の辻々に、観音さまが立っておられて、死後に冥界から地獄などに落ちていく人々を救うという信仰です。それについても、前回の講座のときにお話しましたね。

そして、西暦900年代になると、貴族社会の中で観音さまへの信仰がブームになります。ブームに乗って、京都の周辺にはたくさんの観音寺院が建てられたようです。ところが、貴族たちが参詣するのは、もっぱら古くから栄えた伝統的な観音寺院であったのです。たとえば、清水寺や石山寺です。または、京都中心地からは少し離れますが、奈良の長谷寺、和歌山の粉河寺などです。やはり、信仰をする側の者からすれば、強いご利益を期待したいわけです。その後の時代になると、観音寺院をたくさん巡りさえすれば、功徳が得られるという考え方も出てきますが、この時代は特定の観音さまに思いをはせます。すでに奇跡を起こす力の優れた観音さまが、何カ寺で有名になっていましたので、すかさず、そこにすがろうと考えたのです。

ちなみに、西暦800年代の半ばですが、西国三十三所の壷阪寺と長谷寺が、定格寺(じょうかくじ)に編入されています。後には、粉河寺と施福寺も定格寺に編入されます。四つのお寺とも、観音さまを祀る寺院として有名でした。定格寺というのは、国から経済的な支援を受けた寺院です。西暦800年代の半ばになると、国家仏教が衰退して、国分寺体制を維持することが難しくなっていました。そこで、当時の政府は民間で栄えていた有名寺院をスカウトしていくのです。スカウトされた寺院は経済的なサポートを受ける見返りに、国家のために祈祷をします。つまり、その頃には、国家の宗教政策に組み入れられるほど実力を持った観音寺院が存在していたということです。さらにそうした寺院は、国家のお墨付きを得て、宗教的な地位や名声を得ていきます。当然、貴族たちもそうした寺院に祀られる観音さまの力に着目していくわけです。

一方、観音さまを祀る寺院の側でも、うちの観音さまにぜひ、すがって下さい、とアピールします。例えば、お寺のゆかりや成り立ちを説明するものに、縁起がありますね。その中で、その寺院の観音さまの力を強調するわけです。平安時代に書かれた今昔物語集にも、その頃賑わった観音寺院の縁起が載っていて、当時の人々がどのように観音さまに期待したのかがわかりますし、寺院側がその信仰を力説していたであろう事が窺えるわけです。

そうして特定の観音寺院が、観音ブームの中でひときわ人気を集め出すと、その力を独占的に得たいと思う人が出てきます。当時は上級貴族たちでした。彼らは荘園で得た財力をバックに、特定の寺院をひいきにしたのです。いわゆるパトロンです。そして、上級貴族から支援を受けた観音菩寺院はその経済的な基盤を固めながら発展していくのです。

以上が、一つ目の平安貴族の間でブームとなった観音信仰と特定寺院の発展についてのお話しです。次に、二つ目の観音寺院の発展に寄与したヒジリの存在についてお話します。

 2 観音寺院発展に寄与したヒジリの存在

天皇家が院政を敷いた時代を院政期といいますね。西暦1000年代後半から1100年代末まで時代です。その頃ですが、宗教界でヒジリの存在が貴族社会から着目されるようになります。

ヒジリとは、大きな宗教組織の力をバックに持たないにもかかわらず、人々から深く尊敬や崇拝を集めた当時の宗教者のことです。もちろん、東大寺や興福寺、延暦寺など日本を代表する大きなお寺には、学問にも優れ人望も高いお坊さんがいました。しかし、そうしたお坊さんにもひけを切らないほど、人々に慕われ、頼みにされたのがヒジリです。そして、無名の山寺などに籠もって修行や布教をするという宗教スタイルを共通にもっていたのです。

なぜ、そうしたヒジリが人気を集めたかというと、まず一つには、仏教に対するひたむきな考え方や修行スタイルです。修行に厳格で、実際に厳しい修行に耐えた実績をもっていました。それが尊敬や崇拝の的になったのです。加えて、それら修行によって得たとされる奇跡を起こす力、つまり験力が、人々の将来を占ったり、病気を治したりする力として期待されたわけです。

とはいえ、そうしたヒジリの存在は、なにも院政期なって初めて認識されたわけではないのです。たとえば、奈良時代に活躍した行基もヒジリとして、庶民から称えられていました。つまり、ヒジリ存在そのものは奈良時代からあったわけです。それが院政期になると、貴族社会の中であらたな人気を集めます。

その大きな理由が、仏教の教義に対する認識の低下です。かつて、西暦900年代には、仏教が死後の世界から人々を救ってくれるという信仰に、貴族たちは真剣に寄り添ったわけです。しかし、喉元過ぎれば熱さ忘れるということでしょうか。100年も経つと、仏教の本来の教義を忘れ、ただ形式的に信仰していくだけになります。たとえば、仏像やお堂です。大金をかけて造るのは良いのですが、その法前にぬかづいて真剣に祈るということよりも、その美しさを競ったり、楽しんだりする世界に浸っていきます。それは芸術的観点からは意味があるでしょうが、宗教的な観点からすると、緊張感を失った形式的な行為でしかないのです。

また、それに同化するかのように、既存の宗教団体が貴族社会の利害とつながりながら世俗化を強めていきます。かつては盛んだった学問や修行も怠りがちになっていくのです。

しかし、仏教が形式化したり世俗化しつつも、熱心な仏教徒は貴族社会の中にも、数は少なくなりつつもいるわけです。そうした貴族たちがヒジリの存在に着目していくわけです。

ところで、ヒジリと呼ばれて尊敬や崇拝の的になった者たちはどのように誕生したのだと思いますか。大きく分けると、二つの出自があります。一つは、既成の宗教団体の俗化に反発して、それまで所属していた寺院を去って、独自の宗教活動をはじめた者たちです。延暦寺などで学問や修業を続けていたが、仏教本来の姿を追究しようと組織を抜けた者たちです。もう一つは、正式な僧侶資格をもたずに、修行や布教をしていた者たちです。そうした二つの系統の中から、とくに尊敬や崇拝を集めた者がヒジリと呼ばれる存在になりました。

そして、そうしたヒジリたちは、菩薩道の志をもって、世俗化の権化である貴族社会とは一線を画していきます。ですから、茶わん一つしか持たない、といった清く貧しい生活に進んで臨んでいくのです。寝起きも雨露をしのげるだけの簡素な造りの建物の中だったりしたはずです。そうしたヒジリのいる場所に、人々が慕って、あるいは奇跡を起こす力を信じて、日々集まり出します。それが、険しい山林の中であっても、崇拝者たちは苦にならないのです。直接会って話を聞ければよいが、それが叶わないまでも修行する後ろ姿だけでもみたい。後ろ姿を見られなくても、その衣の端を見るだけでもいい。あるいは同じ空間の空気を吸うだけでもありがたい、となるわけです。そして、それら人々はヒジリのために、食料を持参し、あるいは草庵を設えたり、仏像を彫って祀ったりと無償の支援をします。ちなみに、祀られる仏像は、観音が多かったようですね。

それら多くのヒジリは、修行の場に近い山林を拠点にしていました。ですから、草庵やお堂も山の上などに建てられるケースが多かったのです。しかし、ヒジリの中には、山を下りて町なかに拠点を移す者もいたようです。人々の気持ちにより添い、布教をするのには、人々が多く住む町なかの方が都合が良いと考えたからです。

さきほど、平安時代には京都周辺にたくさんの観音寺院が建てられ、その中から特定の寺院が発展してきた話をしました。同様のことは、山林にたくさんできた霊場の場合にもありました。その発展プロセスの中では、無名の霊場の多くが淘汰されていったのです。そして、さきほどの特定の観音寺院が発展した背景には上級貴族の存在が係わっていましたが、山林の霊場の場合には、ヒジリの存在が背景にありました。

西国三十三所の中にも、ヒジリの存在によって発展していった寺院があります。たとえば、1番の青岸渡寺、23番の勝尾寺、27番の圓教寺、28番の成相寺です。以上はいずれも山の寺院ですが、町なかで発展した寺院として、17番の六波羅蜜寺、19番の革堂行願寺あります。その双方の霊場で、とくに有名なヒジリとしては、17番六波羅蜜寺の空也上人、19番革堂行願寺の行円上人、27番圓教寺の性空上人が挙げられます。

ひいては、そうしたヒジリたちが院政期に貴族社会で人気になるわけです。例えば、梁塵秘抄にも「ヒジリの住所」として、それらの霊場が登場します。「聖の住所はどこどこぞ、箕面よ勝尾よ播磨なる書写の山(中略)~南は熊野の那智とかや」と謡われるのです。

ちなみに梁塵秘抄は、当時の貴族社会で流行った今様を集めたもので、今様とは現代で言う歌謡です。梁塵秘抄は平安末期に後白河法皇によって編纂されました。後白河法皇は源平合戦が繰り広げられた時代に生きた人で、老獪な政治家とも有名です。しかし一方で、今様に強い思い入れがあって、喉が腫れて声が出なくても毎日謡ったそうです。そして、その楽曲を何とかして、後世に伝えたいと願ったそうですが、録音機がなかった時代ですから、伝承者がいなくなった時点で記録は途絶えました。ただし、歌詞の大半は、それを記録した古文書が明治時代に発見されて、いまに残っています。

話を戻しますと、ヒジリというのは、宗教的に尊敬され、崇拝された者たちへの敬称だということです。しかし、時代を経るとともに、その尺度みたいなものがやや変化していくのですね。当初は、ローカルな世界でストイックに修行を重ねるカリスマ的な宗教者をヒジリと呼んで、それは当時の天台宗や真言宗などのトップを務めたお坊さんよりも人気を集めました。それが、時代を下ると、もう少し定義が甘くなって、大教団を背景に持たないけれども、広い支持層をもつ宗教的な実力者をヒジリと呼ぶようになります。例えば、先生という呼称とも相通じるものがあるかもしれません。明治・大正時代に先生と呼ばれた人物は、相当な学識者とか政治家とかでした。しかし、現代は私のようなカルチャーセンターの講師でも先生と呼んでいただけます。ヒジリという尊称もそうで、時代とともにその言葉の重みが変わっていったということです。

ちなみに、成り立ちは別にしても、西国3番の粉河寺や11番の醍醐寺、15番の今熊野観音寺、16番の清水寺、18番の六角堂などでも、ヒジリが活動したり、寄宿していたことが古い文献に書かれているようです。

つまり、ここで重要なことを言いたいのです。それは、ヒジリたちにはネットワークがあったという話なのです。ヒジリとその配下の者たちは、「聖の住所」に滞在しながら修行や布教をし、さらに違う「聖の住所」に駐留して修行や布教を繰り返していました。その行動範囲は、近畿を中心に北陸、中部、四国、中国、九州を含むエリアにまで広がっていたようです。

ひいては、それらのネットワークが、西国三十三所の成り立ちと密接に関わっていくのです。

さて、この辺でお時間が来ました。

次回8月2日の講座では、ヒジリのネットワークを基に、西国三十三所がどう成立していったかという、日本の巡礼の黎明期の話をじっくりと解説していきます。お楽しみに。

以上